元気がでる名言(松下幸之助)
「万策尽きたと思うな。
自ら断崖絶壁の淵にたて。
その時はじめて新たなる風は必ず吹く。」
松下幸之助(出典:ウィキペディア)
1894年(明治27年)11月27日、松下幸之助は現在の和歌山市禰宜に三男として生まれる。
幸之助が4歳の頃、父が米相場で失敗し破産。一家は下駄屋を始める。しかし父には商才もなく店を畳んだため、幸之助は尋常小学校を4年で中退し、9歳で大阪の宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。後に奉公先を五代自転車に移し、自転車商売の原点を学ぶ。
幸之助は大阪に導入された路面電車を見て感動。電気に関わる仕事を志すようになる。16歳で大阪電灯(現在の関西電力)に入社し、7年間勤務。当時、電球の取り外しは危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案。
18歳で関西商工学校夜間部予科に入学。22歳で大阪電灯を依願退職した。
幸之助は大阪の自宅で妻とその弟の井植歳男(戦後に三洋電機を創業)らと電球ソケットの製造販売に着手。売り上げは芳しくなかったが、扇風機の部品を大量受注したことで窮地を脱し、その後アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗った。
事業拡大に伴い、1918年、23歳の幸之助は松下電気器具製作所(現在のパナソニック)を創業。電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプを考案し、これらのヒットで乾電池などにも手を広げた。
第二次世界大戦中は、軍需品の生産に協力。戦後GHQによって制限会社に指定され、幸之助以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。
「松下は一代で築き上げたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁する一方、1946年11月にはPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出すことで世評を高め、人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、制限会社指定を解除され、1947年、52歳の幸之助は社長に復帰。
1957年には自社製品販売要請に応じた小売店を自社系列電器店網へ組み込み、日本初の系列電器店ネットワークとなる「ナショナルショップ(現在のパナソニックショップ)」を誕生させた。
1961年、66歳の幸之助は会長に就任して第一線を退く。1973年には現役を引退して相談役に退く。
1979年には政界に貢献するため私財70億円を投じて松下政経塾を設立。
1989年4月27日、松下幸之助は気管支肺炎により死去、94年の生涯を閉じた。