「私たちの最大の弱点は諦めることにある。
成功するのに最も確実な方法は、
常にもう一回だけ試してみることだ。」
「ほとんどすべての人間はもうこれ以上、
アイデアを考えるのは
不可能だというところまで行きつき、
そこでやる気をなくしてしまう。
勝負はそこからだというのに。」
「私は失敗したことがない。
ただ1万通りのうまく行かない方法を見つけただけだ。」
トーマス・エジソン(出典:ウィキペディア)
847年2月11日、トーマス・エジソンはアメリカ中西部のオハイオ州マイランに7人兄弟の末っ子として生まれる。
エジソンは小学校に入学すると授業中に事あるごとに「なぜ?」を連発し、最終的に担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、わずか3ヶ月で校長から退学を勧められて中退。その後、エジソンは小学校の教師であった母から勉強を教わる。母は好奇心旺盛なエジソンのために家の地下室に様々な化学薬品を揃え、少年時代のエジソンはそこで科学実験に没頭した。
1864年、17歳のエジソンはカナダの駅で夜間電信係として勤務。何事もなければ一晩中1時間おきに勤務に就いていることを示す信号を送るという仕事であった。
退屈な仕事に飽きたエジソンは、時計を使って電信機が自動で電信を送る機械を発明した。エジソンは電信を機械に任せて寝ていたところを上司に見つかり怒られたが、これが最初の発明となった。
エジソンは21歳のときに初めて特許を取得。これは議会における賛成票と反対票の数を押しボタンで瞬時に集計し、投票にかかる時間を大幅に短縮するものであった。しかし、少数派の議員による牛歩戦術ができなくなるという理由で全く採用されなかった。
この経験により、いくら素晴らしい発明をしても人々が喜んでくれなければ何の意味もないことを痛感。エジソンは人々の意見や要望をよく聞いてから発明に取り組むようになる。
翌年に特許を取得した株式相場表示機は業界から大いに歓迎され、その特許権は4万ドル(現在の約2億円相当)で買い取られる。こうしてエジソンは発明家としての人生を本格的に歩んでゆくことになる。
1871年、エジソンは24歳のときに結婚。3人の子どもが生まれたが、多忙だったエジソンがあまり家に寄りつかなかったことで、妻は引きこもりがちになり、次第に体調を崩し、1884年にこの世を去った。1886年にエジソンは再婚。その後、3人の子どもをもうけている。
エジソンは30歳のときに蓄音機の実用化で名声を獲得。その後、メロンパーク研究室を設立。研究所では電話、レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを商品化した。
エジソンは白熱電球の発明者ではないが、電球のフィラメントに京都八幡の竹を使うなど、改良に注力し、家電、発電、送電までを含む電力の事業化に成功したことが最も大きな功績である。
1893年にエジソンはアメリカ初の映画スタジオを設立し、白黒フィルムの制作をはじめる。エジソンは約1,200本のフィルムを制作した。
1931年10月18日、トーマス・エジソンは84年の生涯を閉じた。
自動車王のヘンリー・フォードはエジソン電灯会社の元社員であり、エジソンとは生涯の友人であった。