「世界で最も素晴らしく最も美しいものは、
目で見たり手で触れたりすることはできません。
それは心で感じなければならないのです。」
「自分でこんな人間だと思ってしまえば、
それだけの人間にしかなれないのです。」
「結局真の知識を得ようと望むものは、
誰でも艱難の山を一人で登らなければならず、
頂上への王道がない以上、
私は曲がりくねりながら登らねばならぬことに気付いたのです。」
ヘレン・ケラー(出典:ウィキペディア)
ヘレンが6歳のとき、家庭教師としてマサチューセッツ州ボストン郊外にあるパーキンス盲学校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリヴァンが派遣される。
サリヴァンは幼少のころに弱視であった自分の経験を生かし、ヘレンにしつけや指文字、言葉を教え、ヘレンは話せるようになる。サリヴァンはその後約50年に渡りよき教師、そしてよき友人としてヘレンを支えていくことになる。
7歳のヘレンはパーキンズ盲学校に入学。14歳でニューヨークのろう学校に入学し、発声の勉強にはげむ。
16歳のときにケンブリッジ女学院に入学。しかし、翌年サリヴァンが校長と教育方針をめぐって衝突し、ヘレンは退学。ヘレンはもう一人の家庭教師キースの手を借りて勉強を続ける。
1900年、20歳のヘレンはラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)に入学。1902年に『わたしの生涯』を執筆し、新聞に連載。1904年に卒業し、文学士の称号を得る。
ヘレンは29歳のときにアメリカ社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な運動に参加した。同時に著作家としても活動を続ける。
1936年にサリヴァンが死去(享年70)。サリヴァンが病床にあるという理由で岩橋武夫(点字刊行のライトハウスを設立)の来日要請をためらっていたヘレンにサリヴァンは「日本に行っておあげなさい」と遺言したという。
1937年、56歳のヘレンは浅間丸に乗り横浜港に到着。日本各地を訪問した。新宿御苑では観桜会が開催され、ヘレンは昭和天皇に拝謁した。
訪日中にヘレンは秋田犬を所望し、贈られた秋田犬ともに帰国。アメリカに初めて持ち込まれた秋田犬であった。
戦後、1948年には再び来日し、全国を講演してまわる。
1955年、75歳のヘレンはサリヴァンの伝記『先生』を出版。同年に三度目の来日。前年に亡くなった朋友岩橋武夫に花を手向けるためであった。
1964年、84歳のヘレンに文民最高位の勲章である大統領自由勲章が贈られる。
1968年6月1日、ヘレン・ケラーは87年の生涯を閉じた。死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られる。