「たとえ、いかなる逆境、悲運にあおうとも、
希望だけは失ってはならぬ。
朝の来ない夜はないのだから。」
「いいじゃないか、
5年道草をくったら、
5年遅く生まれて来たと思うのだ。」
「登山の目標は山頂と決まっている。
しかし人生の面白さはその山頂にはなく、
かえって逆境の山の中腹にある。」
吉川英治(出典:ウィキペディア)
1892年(明治25年)8月11日、現在の横浜市中区山元町において旧小田原藩士の次男として生まれる。本名は吉川英次(よしかわひでつぐ)。
1898年、英治は山内尋常高等小学校に入学。騎手の馬屋が近くにあり、将来は騎手になることを考えていた。
英治は10歳のころになると雑誌に投稿するようになり、時事新報社の『少年』誌に作文が入選。しかし父との確執もあり小学校を中退。英治は職業を転々としつつ独学した。
17歳のときには年齢を偽って横浜ドックの船具工になるも作業中に墜落して重傷を負う。
その後上京して象眼職人の下で働く。また川柳の世界に入り作品を発表。
1921年、29歳のときに小説3編が講談社の懸賞小説に入選。同年、東京毎夕新聞社に入社。文才を認められ『親鸞記』などを執筆。
1923年、30歳のときに人気芸妓だった赤沢やすと結婚。関東大震災により東京毎夕新聞社が解散すると、文学で生計を立てることを決意。
1925年に創刊された『キング』誌に連載し、「剣難女難」で人気を得る。
その後、執筆の依頼は増え、巨額な印税が入るも妻やすは急激な変化についていけず、次第にヒステリーになっていった。
1935年に連載を開始した『宮本武蔵』は新聞小説史上かつてない人気を得る。
1937年、45歳の英治はやすと離婚、料理屋で働いていた16歳の池戸文子と再婚する。
敗戦後はその衝撃から筆を執る事ができなくなるも1947年から執筆を再開。
1950年、敗れた平家と日本を重ねた『新・平家物語』の連載を開始。この作品で第1回菊池寛賞を受賞した。
1960年、68歳の英治は文化勲章を受章。
1962年9月7日、吉川英治は肺癌のため国立がん研究センター中央病院で死去。70年の生涯を閉じた。